2009/03/03(Tue)20:17
今日
は
俺は
かぼちゃ
が
食べたかった。
だから
かぼちゃの煮物
を
作って
食べた。
今日の
俺は
かぼちゃ
の
ためにあったと
言っても
過言ではない。
先日
実家に
帰ったとき
突然
親父
が
こんなことを
聞いてきた。
「お前は『食べるために生きる』?それとも『生きるために食べる』?」
と。
俺は
さして
迷うこともなく
「食べるために生きる」
と
言った。
親父は
なんやかんや
言った後
「生きるために食べるのがほんとうなんだよ」
と
言った。
俺も
その後
親父に
なんやかんや
反論じみた
ことを
言ったが
親父も
それ以上
何も
言わなかった。
確かに
「生きる」
選択肢
が
あまりにも
多様に
なりすぎた
現代(それも一部地域の話ではあるが)
では
「食べる」
という
行為は
「単なる生きるための手段」
と
みなされがち
かもしれない。
確かに
俺だって
食べるためだけに
仕事したり
生活
したり
しているわけではない。
それは
否定しない。
しかし
俺は
「食べる」
ということが
生きる
ということの
上で
最も
大切
なことだと思う。
人間には
文字通り
生きていくためには
なくては
ならない
3つ
の
欲求
が
ある。
性欲
食欲
睡眠欲。
この
中でも
食欲
は
他の2つ
とは
一線を
画している。
それは
なぜか。
それは
「食べる」
という行為
が
自分
以外の
生命を
奪い取る
行為に
他ならないから
である。
この
ブログ
にも
何回か
書いてきた。
生き物は
なぜ
他の
生き物の
命を
奪うことでしか
生きられないのか、
と。
だからこそ
本来は
「食べる」
という
行為
には
敬意
と
感謝
が
必要
だと
思う。
まぁ
今
こんなこと
言うのは
よほど
敬虔
な
信仰者
か、
俺みたいな
偏屈
な
人間
くらいだろうけど。
PR
No.510|ひとりごと|Comment(0)|Trackback