2007/09/05(Wed)21:56
ふー。
今日は
半日
パソコン
と
にらめっこ
して
卒論
書いてました。
しかし
進まない
進まない。
今日は
うなりにうなって
やっとこさ
1000文字ちょい。
まぁ
おかげで
やっと
第一章
は
一応の
形になりました。
それでも
まだまだ
加筆・修正
すべきところが
くさるほど
ありますけど。
先は
長い。
以下
今日
頭ん中
こねくりまわして
吐き出した
文章を。
序の中で、この括弧付の「私」というものは、人間や生命だけでなく、いわゆるモノといわれる物も含めるすべての存在が逃れがたいものであると述べた。これはどういうことか。これはプラトンの言うイデアのような、例えば、あらゆる椅子を椅子たらしめているような「椅子そのもの」がある、という話ではない。この「私」はある観念を包括し、その存在一般を保障するものではない。つまりそれぞれの観念(椅子なら椅子、人なら人)の唯一の「私」によって、個々の存在が成り立っている、ということではない。この「私」とそれぞれの存在との関係はあくまでも、一対一の関係である。例えば、椅子という観念を支える、(椅子の)「私」があるのでなく、今、目の前にある「この椅子」が持つ自己同一性が「私」なのである。「この椅子」が「この椅子」であり、また同時に「椅子」でもある。この場合の「椅子」は、いわゆる観念と呼ばれるものであるが、ここでは、他の椅子同士との横のつながりではなく、「この椅子」が「椅子」であるかどうかの問題である。つまり、この「私」には、「このA」は「このA」であり、また「このA」は「A」である、という二つの問題を抱えているのである。包括的、一般的観念を放棄した「私」において、いわば、「このA」が「A」であると言えるような、包括的な「A」を設定することは矛盾しているように見えるが、この「私」に関する考察も後の章に送りたいと思う。個々の存在が持つ自己同一性。ここでの「私」は一言で言うとそういうことになる。当然、この世界にある存在の数だけ「私」もまた有ることになる。つまりそれは埴谷自身でもあるし、『死霊』を読む私たち一人ひとりでもあるし、また未だ物言わぬこの世界のあらゆるモノ、である。繰り返しになるが、序の中で「私」とは「Aそのもの」と言ったのは、Aが「私」によって、共通項として括られるわけではなく、「このA」が「このA」であり、かつ「A」であるためなのである。卒論
っつっても
何やってんの?
と
言われても
こんな
こと
やっちょるわけです。
え?
何
言ってるか
分からないって?
大丈夫です。
自分でも
よくわかってn(略)
もう
ちょっと
平素で
簡明な
文章にしたいんですけどね。
なにせ
テーマが
テーマですし
なにより
著者
の
力量が
あまりにも
拙いもので。
どーすっかなぁ。
【片言隻語】
「人間そのものの信仰心ってのは馬鹿にならんからなあ・・・」
『るくるく』 第四巻
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No.177|ひとりごと|Comment(5)|Trackback
無題
2007/09/05(Wed)22:33
卒論すごいですね~
なにかいてるのかさっぱ(げふんげふん
私は工学系の学校行っていたのでこういうのはすごく新鮮です
なんかはぐるまさんがとっても賢くみえるw
最後の難関だけど
単位取れるようにがんばってね
ちなみに私は論文2テーマ書いたんですよ(ちょっと自慢)
ではでは
No.1|by つぼみ|
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